青い川面から飛び出すアオサギ2022/12/29

 午前6時50分、黒目川からは太陽が見えない時間帯。空を映して川は青く流れていました。岸辺は暗い。手前の岸にアオサギがいました。遊歩道からのぞき見る感じです。目と目が合ったら、アオサギがそわそわし始めました。飛ぶなと思ってカメラを構えた時ときに、飛び出しました。右に行くと思ったら左に行きました。裏をかかれました。
 
飛び出すアオサギ

飛び出すアオサギ

飛び出すアオサギ

今も残る軍事施設の跡2013/10/02

 東久留米市には「たての緑地」という約1キロメートルの遊歩道があります。落合川の西武線ガード付近から、ひばりが丘団地の手前まで、送電線に沿って起伏のある道が続いています。実はこの道、戦前は戦闘機のエンジンをつくるための材料を運搬していた「引き込み線」の跡地です。

 最近、多摩地域を「軍都」「空都」の視点から取り上げる本が出版されています。陸海軍の航空機製造とその関連施設が多摩にはたくさんあったからです。東久留米市も例外ではなく、「引き込み線」もその一つでした。『東久留米市の近代史』『知られざる軍都 多摩・武蔵野を歩く』などをもとに、記します。
 1944年(昭和19年)、西武線・東久留米駅(当時は武蔵野鉄道)から西東京市(当時は田無町)の中島航空金属田無製作所まで、「引き込み線」が敷設されました。全長約2.84キロメートルの単線です。中島航空金属は戦闘機のエンジンをつくるための鋳型部門の会社で、最盛期には1万6000人の従業員がいたとされています。現在のひばりがおか団地は、中島航空金属の敷地でした。

 鋳型で必要だったのが大量の砂でした。このため、ひばりが丘駅(旧田無町駅)から牛車で砂を運んでいました。しかしこれでは間に合わなかったようで、東久留米駅から引込み線(東久留米駅構外線)を敷設して、砂や燃料を運びました。『東久留米市の近代史』は、「二動輪の蒸気機関車が6輌前後の無蓋貨車を引いて、時速20キロほどの速さで走っていたといわれています」と書いています。終戦までの約1年間、運用されたそうです。戦後、ひばりが丘団地(1959年=昭和34年=に造成)の建設では資材運搬用として使われたそうです。レールは1960年代初めまで残っていたらしい。
 中島航空金属田無製作所は、中島飛行機武蔵野製作所(武蔵野市緑町から八幡町一帯)と深い関係がありますが、それは機会があったら書くことにします。
 (2014/07/30 「(引き込み線が)ひばりが丘団地の資材運搬用に使われたそうです」と書きましたが、地元研究者の方から「その確実な資料が今のところ見当たりません」とのご指摘をいただきました。ありがたいことです。「資材運搬用として活用されたという記録も残っている」と書いている本もあります。しかし、記録自体は明示されておりません。以上を追加として記しておきます)

 落合川にかかる「立野一の橋」に立って、下流をのぞみます。正面に西武線のガードが渡っています。左手にこんもりした空き地があり、右手に見える建物の下には鉄橋を支えていたコンクリートの橋台が見えます。左手ずっと奥が東久留米駅。送電線に沿ってレールが走り、こんもりした空き地あたりから右手の橋台あたりまで鉄橋がかかっていたと思われます。橋台からさらに右へ行くと「たての緑地」の入り口です。

引込み線跡

 上の写真で見れば右端にある建物をしっかり撮ったのが下の写真です。送電線の下に強大なコンクリートの塊があります。これが橋台です。鉄塔の先に「たての緑地」があります。
引込み線跡

 当時使われていた枕木らしいものも残っていました。
引込み線跡

 橋台の上にある建物の横から落合川方面を撮った写真です。ここから、こんもりした空き地にかけて鉄橋がのびていたはずです。送電線のずっと先が東久留米駅です。ちなみにこの送電線は、西武鉄道の変電所につながっています。
引込み線跡

  「たての緑地」です。送電線にそって道がのびていることがわかります。
引込み線跡

 踏切から東久留米駅を見たところ。画面左側にある駐輪場が引き込み線の跡かもしれません。
引込み線跡

 踏切から東久留米駅を撮った写真です。画面左手が駅。電車は東久留米駅を出て池袋方面に向かっています。駐輪場に沿って道があります。この道をゆくと落合川にぶつかります。引き込み線のレールは駐輪場から右奥の黄色い建物あたりを通っていたのではないかと思われます。
引込み線跡