今も残る軍事施設の跡2013/10/02

 東久留米市には「たての緑地」という約1キロメートルの遊歩道があります。落合川の西武線ガード付近から、ひばりが丘団地の手前まで、送電線に沿って起伏のある道が続いています。実はこの道、戦前は戦闘機のエンジンをつくるための材料を運搬していた「引き込み線」の跡地です。

 最近、多摩地域を「軍都」「空都」の視点から取り上げる本が出版されています。陸海軍の航空機製造とその関連施設が多摩にはたくさんあったからです。東久留米市も例外ではなく、「引き込み線」もその一つでした。『東久留米市の近代史』『知られざる軍都 多摩・武蔵野を歩く』などをもとに、記します。
 1944年(昭和19年)、西武線・東久留米駅(当時は武蔵野鉄道)から西東京市(当時は田無町)の中島航空金属田無製作所まで、「引き込み線」が敷設されました。全長約2.84キロメートルの単線です。中島航空金属は戦闘機のエンジンをつくるための鋳型部門の会社で、最盛期には1万6000人の従業員がいたとされています。現在のひばりがおか団地は、中島航空金属の敷地でした。

 鋳型で必要だったのが大量の砂でした。このため、ひばりが丘駅(旧田無町駅)から牛車で砂を運んでいました。しかしこれでは間に合わなかったようで、東久留米駅から引込み線(東久留米駅構外線)を敷設して、砂や燃料を運びました。『東久留米市の近代史』は、「二動輪の蒸気機関車が6輌前後の無蓋貨車を引いて、時速20キロほどの速さで走っていたといわれています」と書いています。終戦までの約1年間、運用されたそうです。戦後、ひばりが丘団地(1959年=昭和34年=に造成)の建設では資材運搬用として使われたそうです。レールは1960年代初めまで残っていたらしい。
 中島航空金属田無製作所は、中島飛行機武蔵野製作所(武蔵野市緑町から八幡町一帯)と深い関係がありますが、それは機会があったら書くことにします。
 (2014/07/30 「(引き込み線が)ひばりが丘団地の資材運搬用に使われたそうです」と書きましたが、地元研究者の方から「その確実な資料が今のところ見当たりません」とのご指摘をいただきました。ありがたいことです。「資材運搬用として活用されたという記録も残っている」と書いている本もあります。しかし、記録自体は明示されておりません。以上を追加として記しておきます)

 落合川にかかる「立野一の橋」に立って、下流をのぞみます。正面に西武線のガードが渡っています。左手にこんもりした空き地があり、右手に見える建物の下には鉄橋を支えていたコンクリートの橋台が見えます。左手ずっと奥が東久留米駅。送電線に沿ってレールが走り、こんもりした空き地あたりから右手の橋台あたりまで鉄橋がかかっていたと思われます。橋台からさらに右へ行くと「たての緑地」の入り口です。

引込み線跡

 上の写真で見れば右端にある建物をしっかり撮ったのが下の写真です。送電線の下に強大なコンクリートの塊があります。これが橋台です。鉄塔の先に「たての緑地」があります。
引込み線跡

 当時使われていた枕木らしいものも残っていました。
引込み線跡

 橋台の上にある建物の横から落合川方面を撮った写真です。ここから、こんもりした空き地にかけて鉄橋がのびていたはずです。送電線のずっと先が東久留米駅です。ちなみにこの送電線は、西武鉄道の変電所につながっています。
引込み線跡

  「たての緑地」です。送電線にそって道がのびていることがわかります。
引込み線跡

 踏切から東久留米駅を見たところ。画面左側にある駐輪場が引き込み線の跡かもしれません。
引込み線跡

 踏切から東久留米駅を撮った写真です。画面左手が駅。電車は東久留米駅を出て池袋方面に向かっています。駐輪場に沿って道があります。この道をゆくと落合川にぶつかります。引き込み線のレールは駐輪場から右奥の黄色い建物あたりを通っていたのではないかと思われます。
引込み線跡

コメント

_ Green Cherokee ― 2013/10/05 11:11

kuromeさん、こんにちは。
素敵な記事をありがとうございました。私は、元・中島飛行機があった武蔵野中央公園(古い人達はグリーンパークと呼びます)近くに住んでいます。このすぐ横にも引き込み線があり、今は未舗装の遊歩道になっています。この引き込み線はJR中央線の武蔵境駅に伸びています。
遊歩道沿いには雑木もあり、夏は虫を目当てに子供達が懐中電灯を持って現れます。小さな池もあり、ザリガニ釣りを楽しむ子供もいます。
しかし・・・、東久留米周辺にもこんな引き込み線があったとは、全く存じませんでした。今度行った時に見学してみたいと思います!

_ Green Cherokee様 ― 2013/10/05 17:55

こんばんは。
一度、武蔵野中央公園に行ってみたいと思っております。
遊歩道も歩いてみたいです。
中島飛行機武蔵野製作所の一部は、戦後、米軍の将校用住宅として使われていたそうですね。1951年に返還された後、国鉄スワローズ(ヤクルトスワローズ)のホーム球場「グリーンパーク球場」ができたとか。三鷹駅から球場まで走った電車の一部は、その引込み線を使用したそうです。
多摩地域は中島飛行機と関係があったことは知っていましたが、東久留米の隣、武蔵野市に東洋一の飛行機製造工場があったことを知ったのは、ごく最近です。東久留米の引込み線についても、噂は聞いていましたが、自分の足で歩いたのは今回が初めてです。市民の多くも知らないのではないかと思います。機会があったら、釣りをしながら見学してみてください。
東久留米市内には、海外の通信を傍受する陸軍の施設もありました。暇ができたら調べてみるつもりです。

_ Green Cherokee ― 2013/10/06 16:56

kuromeさん、こんばんは。
良くお調べになりましたね! 以下も既にチェック済みでしょうか・・・?
※武蔵野グリーンパーク野球場
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E9%87%8E%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF%E9%87%8E%E7%90%83%E5%A0%B4
ちなみに、この写真の左上ぎりぎりのところに拙宅があります。
戦時中、中島飛行機周辺にはたくさんの爆撃を受けたため、不発弾が埋まっているんですよ。ちなみに、過去に3回、不発弾処理のために避難したことがあります。
武蔵野中央公園(グリーンパーク)は、都心近くにしては遊具もほとんどなく、広大な緑の公園になっていて、いつも親子連れで賑わっています。
拙ブログの過去記事に一コマ写真が貼ってありましたので、ご参考くださいね。
http://naturearoundme.blog.fc2.com/blog-entry-42.html

_ Green Cherokee様 ― 2013/10/07 00:08

こんばんは。詳しい資料を教えていただいて、ありがとうございます。
ウィキペディアは、見ておりませんでした。
おかげさまで、より具体的にわかりました。
3回も避難したんですか! それはお疲れさまです。
空襲で狙われましたから、たくさん残っているんでしょうねえ。
戦争は、過去のものではありませんね。
武蔵野市には、記録する会のようなものがあって、かなりしっかり調べているようです。東久留米は縄文時代の遺跡発掘などは進んでいるようですが、戦争当時の調査はあまり進んでいないように思われます。核になる軍事施設がなかったからでしょう。それでも、中島飛行機に落とされた爆弾が東久留米にも流れてきてお寺に落ちた、という話はあります。その碑があるとかで、これも一度見ておかないといけません。
ブログの写真を拝見しました。広々としていい感じです。
武蔵野中央公園には地下道が走っているという話もあるので、時間があって体力が残っているときに行ってみます。引き込み線の跡もみたいですし。

_ T.yamazaki ― 2014/07/29 18:34

kurome様
20年近く東久留米の戦争関連資料の調査を進めてきました。ようやく少しづつ確実な資料が揃いつつある段階です。その概要を東久留米の近代史に書かせていただきました。まだ、あまり認知されていない戦争関連資料を紹介していただき感謝しております。紙数の関係で記載できなかったものを私も色々な手段で紹介してゆきたいと考えております。先日は市の教委だよりに引き込み線を、次回は北多摩陸軍通信所跡を連載する予定になっています。よろしくお願いいたします。
なお、引き込み線に関する最近のいろいろな記事をみますと、ひばりが丘団地の建設に利用されたと記載されたものが多く見られます。しかし、その確実な資料が今のところ見当たりません。何を原典にしているかを明記しているものもないようです。少なくとも近所の方の聞き取り調査ではそのような事実が確認されません。建設関係で資料が残っているといいのですが、どうもその説が一人歩きしているようです。

遅いコメントですいません。いつも鳥の写真が楽しみです。楽しい記事をよろしくお願いいたします。

_ T.yamazaki様 ― 2014/07/30 01:04

こんばんは。はじめまして。
わざわざ拙ブログにコメントをいただきまして、ありがとうございます。
編著者の方からコメントがいただけるとは、思ってもおりませんでした。
なにかのきっかけで引き込み線の話を聞いたものですから、
中央図書館で市史をめくってみました。
しかし、あまりよくわからないので困っていたところ、
司書の方から『東久留米の近代史』を教えていただきました。
その足で市役所に買いに行き、
「たての緑地」のパンフレットもいただいてきました。
同じころ、本屋で『知られざる軍都 多摩・武蔵野を歩く』を発見。
それらをもとに、写真を付けて書いたのがこの記事でした。
『知られざる…』には、以下のような記述がありました。
「ひばりが丘団地の建設時に、
資材運搬線として活用されたという記録も残っている」
記録があるというので私も書いてしまいました。
確実な資料が見当たらないとのご指摘をいただいたので、
拙ブログの記事に追加として、その旨を加えたいと思います。
貴重なご指摘、ありがとうございました。
北多摩陸軍通信所は、
吉村昭の『大本営が震えた日』を読んで、存在を知りました。
図書館で通信所を扱った薄い本(題名は忘れました)を借りて、
「通信住宅」バス停の意味がわかりました。
電電公社の社員住宅があった場所かなと想像しておりました。
まさか軍事施設があったとは想像できませんでした。
吉村氏は、この通信所で「トラ・トラ・トラ」を傍受したと書いていますが、
薄い本の著者は「それはありえない」と否定しています。
どちらもありうることだと思いますが、はてさて…。
市の教育だよりを入手して読ませていただきます。
ご教示を仰ぐこともあろうかと存じます。
その折はよろしくお願いいたします。
ありがとうございました。

_ 鈴木忠雄様 ― 2016/10/01 22:19

私のつたないブログをご覧いただき、かつ連絡までいただいて、たいへん恐縮しております。いただいたコメントは、あえて非公開とさせたいただきました。
鈴木様がお仕事をされていたことは、中日新聞だったかと思いますが、それで読ませていただきました。資料館で語り手をなさっていることも存じておりました。その鈴木様から連絡をいただき、びっくり仰天です。
私が東久留米に引っ越してきたときに、「通信住宅前」というバス停があることを知りました。電電公社の住宅でもあったのかなと考えたものの、それらしい住宅がないので、不思議でした。
たまたま、吉村昭著『大本営が震えた日』を読んでいたら、通信所が出てきました。バス停はその名残であることを知った次第です。その後、鳥居英晴氏の本も読み、関心をもっておりました。
吉村氏が「トラ・トラ・トラを傍受していた」と書いたことに対して、鳥居氏は「日本の電波を傍受することはない」と書いていたのが印象的でした。
お話をうかがいにおじゃましたいです。私も仕事をしている身なので、いつ実現するか定かではありませんが、その折はどうぞよろしくお願いいたします。
ありがとうございました。

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